〈1〉 よくある教室の光景
毎日の教室。国語の授業。『スイミー』(注1)の授業です。
① 教師:この時スイミーは何て言ったのかな?
② 児童:「ぼくが 目になろう、です」
③ 教師:「ぼくが 目になろう、だね」
さて、この光景、どの教室でも普通に見られる光景だと思います。
では、このやりとりに違和感を覚える方はおられるでしょうか。あまりおられないと思います。
これ、別に悪いことではないのですが、毎回このやりとりではどうかな、ということなのです。どういうことでしょうか。
問題は③なのです。
この場合③は、教師が②の児童の発言を繰り返しているわけですね。このこともよくあることだと思います。ましてや1年生の担任は1年生の子が言った発言をきちんとクラス中に届けるために繰り返していることも多いのではないでしょうか。
そこに意図があれば良いのですが、「何となく繰り返している」ことはないでしょうか。「反射的に繰り返している」ことはないでしょうか。
これ、危険です。
先ほどのやりとりに戻ってみましょう。
①の教師の発問に対し、児童は②で「ぼくが 目になろう」と答えています。
この時、もし②の発言児童が小さな声で精一杯発言していたとしましょう。その時に教師が聞こえるようにと親切で児童の発言を繰り返したら・・・
【周りの子が発言者本人の声を聞かなくなる】といった危険性が生まれます。
教師が何気なく児童の発言を繰り返し続けたら、どんどん周りの子達は発言者である仲間の声を聞かなくなり、【先生の発言を待つ】ようになります。これは怖いですね。
この場合は、小さい声で話している仲間の発言を必死に聞き取ろうとする周りの子、という状況が良いわけですね。ですから、特別意図がある場合を除き、教師はすぐに復唱しない方が良いわけです。
もちろん小さい声でなくても同じです。
仲間の発言を聞き取ろうとする姿勢を育むことが「対話的な学び」の第一歩です。
教師は繰り返さない。復唱しない方が良いのです。
この「繰り返す光景」、全国の教室で毎日見受けられている光景ではないでしょうか。
変えるべきことは教師の「日常」にこそ、潜んでいます。
〈2〉 日常をどう変えるのか
それではどうすれば良かったのでしょうか。
先ほどのシーンをもう一度見てみます。
① 教師:この時スイミーは何て言ったのかな?
② 児童:「ぼくが 目になろう、です」
③ 教師:「ぼくが 目になろう、だね」
直すべきは③ですね。
ここで教師は繰り返すのではなく、
③ 教師:沈黙後教室(聞いている子達)を見渡す
③ 教師:「はい」と相づちを打つ
③ 教師:黙って次の子を指名する(発言させる)
これらの対応が考えられます。
基本的に教師は教室で話しすぎなのです。普通は、教師がしゃべればしゃべるほど授業は濁っていきます。ここでも沈黙が良いのです。
さらに「対話」の基本である「耳」を育てるためにできる指導は以下です。
③ 教師:「さんはい」と言って聞いていた<子どもたちに>繰り返させる
繰り返すのは、復唱するのは子どもたちの方なのです。この「さんはい」の指示によって、子どもたちは常に友達の発言を聞いていなければならない状態になります。これを繰り返すと子どもたちの中に「仲間の話に耳を傾ける」という行為が浸透します。
教師は「さんはい」を言うだけでいいのです。
教師がフォローすればするほど、子どもたちの力の出しどころを奪います。思考しなくなります。
日常、やみくもに、無意識に、子どもの発言を復唱していませんか。
〈3〉 教師の「無意識」が子どもの成長を奪う
ここまでも述べてきましたが、教師が何気なく繰り返すことで子どもが聞こうとしない、という事態を生み、思考の場面を奪います。
そしてもう一つ、教師の無意識な繰り返しが子どもの成長を奪っていることがあります。
何でしょうか。
それは、例えば6人の子が順に発言したとして、その都度先生が繰り返していたとします。そうすることによって、単純に【6人の子の発言の機会を奪っている】ということになるのです。
さらに、子どもの発言に少しずつコメントしていたら・・・
余計に時間を食いますね。教師が場を整えるためのコメントをやめれば、その時間、さらに子どもに発言させることができたはずなのです。
1時間の授業で10人発言するクラスと、20人発言するクラスでは当然発言数の多いクラスの方が話す力は付きます。
ですから、我々教師は、「教師が話すことで、子どもの発言する時間を奪っているかもしれない」という意識を持って授業をしたいものです。
今回は日常我々教師が何気なくおこなっていることをもう一度振り返ってみる、という視点でお届けいたしました。また次回お会いしましょう!
(注1)「スイミー:ちいさな かしこい さかなの はなし」 レオ=レオニ 著、谷川俊太郎 訳、好学社、1969年出版、タイトルから引用。